ヨーガスートラ 4章10節~4章15節

 



तासां अनादित्वं चाशिषो नित्यत्वात् ।। 4.10।।
ターサーン アナーディトワン 
チャーシショー ニティヤトワート


तासां ターサーン

それら欲望に


अनादित्वं アナーディトワン

始まりがない。


आशिष:नित्यत्वात्  アーシシャハニティヤトワート

なぜなら、生き物たちの生への愛着は常に存在しているから


 チャ

こそ。(強調の意)

 

「欲求」の在り場所の元は、潜在意識やサンスカーラなど表立って見えないところに蓄積されているので、ここでは「欲求」のことを「残存印象」や「一般的に解される“幸福”への追求」という言葉に置き換えることもできます。

 

アナーディトワン(अनादित्वंは、「元祖」「始まり」を意味する「アーディ」に、打消しの「ナ」をあわせて「アナーディ」という言葉になり、直訳すると「始まりのない」という意味になるのですが、この「始まりの無い」という意味が「永遠」という言葉で訳されてあるものもあります。


「始まりが無いもの=永遠」「始まりが有るもの=終わりが有る」、私たちはこのような言葉上の概念をなんとなく受け入れて物事を考えるけれども、「欲望には始まりがない」というところを「欲望は永遠である」とすると、「欲望は滅することができる」と反論する修行者もいるので、誤解が生じるかもしれません。

 

「残存印象のはじまりがどこから始まったのか探ってもその始点にたどり着くことはできない」という解釈でいいのかな、と思います。肉体を持って生きている時点で、生への願望がサンスカーラに存在していたからであって、その前の生も、生への願望があったから生まれたのであり、宇宙が創造されたところまで話を掘り下げても始まりが解明しないほど「生きる願望」は根付いています。

 


हेतुफलाश्रयालम्बनैः संगृहीतत्वादेषां अभावे तदभावः ।। 4.11 ।।
ヘートゥファラーシュラヤーランバナェヘ 
サングリヒータトワーデーシャーン 
アバーヴェー タダバーヴァハ

 

हेतुफलाश्रयालम्बनैः ヘートゥファラーシュラヤーランバナェヘ

原因、結果、心、対象によって

 

*ヘトゥ(原因)、ファラ(結果)、アーシュラヤ(支持するもの、心)、アーランバナ(依存、欲求の対象)

 

संगृहीतत्वादेषां サングリヒータトワーデーシャーン

(潜在欲求はひとつになって)存在している。

これら4つが


अभावे アバーヴェー

消滅して


तदभावः タダバーヴァハ

(潜在欲求も)なくなる。

 


अतीतानागतं स्वरूपतोऽस्त्यध्वभेदाद्धर्माणां ।। 4.12 ।।
アティーターナーガタン 
スワルーパトーアスティヤドヴァベーダード
ダルマーナーン

 

धर्माणाम् ダルマーナーム

ダルマには

 

अध्वभेदात् アドゥヴァベーダート

時間による区分が存在する。そのため

 

अतीतानागतम् アティーターナーガタム

現在目にみえなくても、過去のものであったり、まだ到来していないダルマもある。

 

स्वरूपतोस्ति スワルーパトーアスティ

スワルーパという精妙な存在の中にいる。

 

ダルマは、無知や欲望などチッタにまつわる働きのほか、あらゆる私たちが識別できる物体や現象のこともダルマといいます。ダルマを一言でまとめると、ダルミーという力を発揮する母体があって、そのダルミーがもっている潜在的な力、顕在した力や役割がダルマです。


「過去に存在していたが、今は存在しない」「将来現れるかもしれないが、今は目に見えないので存在しない」というのは目に見えるか見えないかだけの判別ですが、ヨーガ哲学によれば、今目に見えなくても、その存在が過去や未来に存在することが認識できれば「存在は有る」ということで、プラクリティの中にスワルーパという精妙な形で潜伏している状態です。

過去・現在・未来も心が認識しないものは、「永遠に無い」のですが、過去・現在・未来のいずれかでも現れることがあれば、存在します。




ते व्यक्तसूक्ष्मा गुणात्मानः ।। 4.13 ।।
テー ヴィャクタスークシュマー 
グナートマーナハ


ते  テー

それらは(すべてのダルマ)

 

व्यक्तसूक्ष्मा: ヴィャクタスークシュマーハ

現れる時も、隠微な存在である時も(すべて)

 

गुणात्मानः グナートマーナハ

グナをその実体としている。

 


परिणामैकत्वाद्वस्तुतत्त्वम् ।। 4.14 ।।
パリナーマェカットワードワストゥタットワム

 

परिणामैकत्वात् パリナーマェカットワー

(対象物が)他に転変したあとも調和性があることによって



वस्तुतत्त्वम् ワストゥタットワム

物は物として存在しうる。

 

3つのグナはそれぞれ性質やダルマが異なるのに、それらが合わさっても分断せずに物としての形状をなすのは、3つのグナに調和・統一する働きがあるから。

 

वस्तुसाम्ये चित्तभेदात्तयोर्विभक्तः पन्थाः ।। 4.15 ।।
ワストゥサーミェ 
チッタベーダーッタヨールヴィバクタハ
パンターハ

 

वस्तुसाम्ये ワストゥサーミェ

(皆が認識する)同一の対象物の中に

 

चित्तभेदात् チッタベーダート

それに対する心の見方は異なることからして

 

तयोः タヨーホ 

チッタと、その認識されている対象、両者の

 

पन्थाः パンターハ

道は


विभक्त:  ヴィバクタハ

別別に独立して異なるものである。

 

仏教の唯識派の考えに対する反論とされ、「すべては心の現れ」というところまではサーンキャ哲学と同じとしますが、対象物は個々人の心の中のみに存在して、客観的には存在しない、夢を見ているようなもの、というのが唯識派の考えです。


対象物に対して他者も共有して認識しているのだから客観的に皆のために対象物はある、というのがサーンキャ哲学の意見です。


ドラえもんのアニメで、こんな裏話が昔流行ったことがありました。のび太は実際には植物人間で、経験したことはすべて夢の中の話だった、という一説。ドラえもんの存在について仲間で共有している知識だと思っていたら、個人が夢を見ていただけの世界だった、という話がありました。何もかもが心の中だけの世界、個々人の夢の世界。これが唯識派の意見です。

 

このような背景で昔から論争があったのですが、どんな対象物も、プラクリティの一部が顕現したものであり、かつ他者と共有できていることから、それは自分が一人で夢想している世界ではなく実体として客観的に認められるものである、というのがサーンキャ派の意見です。