ヒンドゥ教男子にとって人生の大きな節目となる洗礼儀式

こんにちは。

先月末、息子のパスポートの更新のためにナニタールへ行って来ました。

リシケシュ ~ ハリドワール バスで1時間

ハリドワール ~ ハルドワーニー 寝台列車で6時間

ハルドワーニー ~ ナニタール バスで1時間半

ナニタールのバススタンド ~ パスポートセンター 原付バイクレンタル 10分 


久しぶりの寝台列車で楽しかったのですが、車内アナウンスがないため熟睡できず、帰路では深夜2時半にハリドワールに到着した時、寝過ごしそうになりました。

隣席のおじさんにタイミングよくイビキで起こしてもらえたのは神業でした。

「熟睡するためにあえて終着駅のデラドゥーンまで寝て、到着後折り返しハリドワールに向かう」というインド人も少なくはないようです。

初めて訪れたナニタールは、乗り物酔いをする人には辛いハードな山奥にありますが、ヨットの浮かぶ湖の周辺は観光地として発展していて「秘境」や「修行の地」という雰囲気はなく、異国風のお洒落な店も並んでいました。

パスポートセンターで3時間過ごし、そのままリシケシュにとんぼ返りだったため、写真を撮ることも忘れていました。

同じウッタラカンド州の山中に住んでいながら、地元に戻ると駅の雰囲気から「ああ、リシケシュに戻ってきた」と思える点がありました。

オレンジ色の服を着たババジ(出家者)がいることや、巡礼旅行中の大家族たちがバススタンドに座り込んで30KGほど重量がある自前のガスシリンダーと料理器具で食事を作っている姿をみて、リシケシュに帰ってきた心地がしました。

節約のために路上で食事を作っているのかと思っていたのですが、人によってはそれだけではない理由があるようです。

海外からみると不衛生なイメージが植えついているインドでありながら、精神世界を覗いてみるとスピリチュアル・宗教的な理由で精神衛生にとても気を使っていたりします。

私が見た「なぜ?」と問いたいカルマ実例

・患者の患部から出た血が自分の指につき、カーテンで指を拭いている医師。

・箒で掃き集めたゴミを歩道脇のドブ水のたまった溝に掃き捨てる人


こういう日常をいつも見ていると、新しい因果を生み続ける国であることを知らされ、それが見慣れてくるとそのズボラさが伝染して、自分も同じことをやってしまいそうになります。

さて、この精神世界に存在する衛生さとは何なのでしょう。

たとえば、先ほど記したように人の家やレストランで食事をしない人も多くいます。たとえ食べることがあったとしても米は食べてはいけないなど、ルールがあります。家族以外が作ったものを食べることによって、たとえ同じカーストであっても他者の想念や邪気が入るので食べたがらないという理由だそうです。

「自分が他者よりも清い存在」と内心思うから、他人の料理が食べられないというのは失礼ではないか、と当初は感じていました。

家族以外が作った食事を食べないというルールは一部のインド人に限られた話で、全体の何パーセントかはわかりませんが、少なくとも身近な親戚だけでも6,7人はいるので、少なくはないと思います。

ヒンドゥ教にはサンスカーラと呼ばれるいくつもの人生儀式の洗礼があります。その中でも上位カースト3位の男性が受ける儀礼にヒンディ語でジャネーウー サンスカール(जनेऊ संस्कार )という儀式があります。

これはカーストにより推奨年齢があり、早い人では10歳ぐらいで受ける子供もいます。この儀礼を受けることによって、心臓部のチャクラが開花し強化され、頭脳が明晰になり、はじめてヴェーダを学ぶことが許されます。

ほかには、マントラ修行が開花する(それまではマントラに生命が宿っていない)。両親の火葬で喪主を務めることができるとされます。

また、結婚する男子は遅くとも直前までに必ず受けなければならない儀式になります。


ジャネーウーとは、聖紐と呼ばれる白い3つの糸のことを指し、左の肩から右の脇下にかけ心臓部に当たるように地肌に装着します。

これは傷んで古くなるとその都度新しいものに取り替えるためのプージャがあり、取り外すときと新しいものをつけるときのマントラがそれぞれあります。

サンスクリット語ではこのジャネーウーサンスカールの儀式をヤッギョーパヴィータ(यज्ञोपवीत= यज्ञ+उपवीत)と呼びます。


 


上の写真は、今年1月に主人の実家のある山奥でジャネーウー・サンスカール儀式を受けた義弟と両親の写真です。

Satyanarayan(サッティヤ ナーラーヤン)と呼ばれるヴィシュヌ神の化身崇拝の祈祷で始まり、お経だけでも3時間ほどありました。

Satyanarayanという祈祷は、結婚記念日や誕生日でも行われることのある祈祷で、その日の朝から儀式が終わるまで食事はせず、儀式のあとは自分のできる範囲で来訪者に食事を振る舞う決まりがあります。お経が読まれている間は、来客者にチャイや茶菓子をどんどん配り疲れを労います。

僧侶も前夜から泊まりがけで、一大行事となりました。私たちは極力シンプルにしたかったので地元の人たちや親戚を呼び70人ほどで行い、終了間際に親族の女性達にサリー服を
お土産として渡しました。

結婚式よりも重要視する人の場合、1000人以上招待し盛大なパーティを行うこともあります。


後方で食事の準備をしている人たち

これが終わると地元の住人たちの協力で作られた料理を沢山の人に振舞います。地元の人たちは家族ではないため、厳密にはジャネーウー・サンスカールの儀礼を受けた人は食べてはいけないのかと思っていましたが、神聖な儀式であり無償で手伝いに来ていただいた方たちの手料理はサットヴァな域のため頂いて大丈夫なようです。写真を撮るのを忘れてしまいましたが、地元でとれた野菜料理が美味しかったです。

標高2500メートルの山頂を眺めながら


玉ねぎやニンニクは一切使わずにこんな味が出せるのかと感嘆したものでした。

そこで、このジャネーウーの儀式を受けた男子は日常のこと細かいことまでルールに従って生活することが求められます。

食事だけでなく、跳びはねることを禁じる規則もあることからアシュタンガ・ヴィンヤサは指導できない、というヨガの先生もいます。

他人の家でチャイすら飲んではいけない、便意をもよおしたら時間はいつであろうが、その後は必ず風呂に入る、などの決まりもあります。

以前私達のヨガスクールでも、瞑想の先生がそれが理由で入浴するために帰宅してしまい、幾度か瞑想の授業がキャンセルになったことがありました。返金だけでは対応できない申し訳なさがありました。近頃先生は、ルールを緩くして対応されるようになっています。

熱心すぎるあまり、海外から訪れた方の予定まで狂わせてしまうことは信頼関係が続かなくなりますし、中庸のバランスをとることも大事ですね。

それでも、一時は極みまで自分を追い込んだ結果として、瞑想や哲学の講師として信任されている方なのだとも言えます。

実際は社会生活が不便になることから放棄する人の方が多いぐらいで、自由意思に任されています。

外国の方には、授業がキャンセルされると「不誠実」と意見されることもあり、そう思われても仕方がないですよね。実は、インド人の先生の事情にこのような背景があると今日はお伝えさせていただきました。