ヨーガスートラ 4章16節~4章21節

濡れると透明になるサンカヨウ


न चैकचित्ततन्त्रं वस्तु तदप्रमाणकं तदा किं स्यात् ।। 4.16 ।।


ナ チャェカチッタタントラン ワストゥ タダプラマーナカン タダー キン スヤート


 チャ
そのほか、

वस्तु ワストゥ
(客観的に視界に入ってくる)事象は

एकचित्ततन्त्रम्  エーカチッタタントラム
特定の個人のチッタにのみ知られている

 ナ
のではない。

तदप्रमाणकम् タダプラマーナカン
(特定の個人の)チッタに映し出されていない時

तदा タダー
その時

किं स्यात् キン スヤート
その物(事象)はどうなるのか?



前回に続き、唯識派への反論になります。個々の心の中でのみ事象は作り出されその人の心の中だけに存在する、というのが唯識派で、サーンキャ派はそれに異議を唱え、外的な事象は私や他人と共有して認識され実体がちゃんと存在する、という意見です。

もし唯識派のいうような、誰か特定の個人の心の中でのみ物が認識されるとすれば、心がその物について意識をむけていない時は、その事象・物の存在はどこへ行くのか、心の中でのみ存在する幻想的なものではなく、実体として存在する、と説きます。

 


तदुपरागापेक्षित्वाच्चित्तस्य वस्तु ज्ञाताज्ञातम् ।। 4.17 ।।


タドゥパラーガーペークシトワーチッタスヤ ワストゥ ジュニャータージュニャータム



चित्तस्यチッタスヤ
心は

तदुपरागापेक्षित्वात् タドゥパラーガーペークシトワート
外的な事象に影響されて染められ認識する性質であるから、

वस्तु ワストゥ
(客観的な外的な)事象は

ज्ञाताज्ञातम् ジュニャータージュニャータム
心によって知られることもあれば、知られないこともある。

तदुपरागापेक्षित्वात् タドゥパラーガーペークシトワート」の中に「ウパラーガ」という単語があり、ウパラーガは「色」とか「周辺に影響を受けて色が染まる」といった意味があります。

外的な事象は空想ではなく実体として存在していて、心はただ、対象物を取り入れる時は感覚器官を通して認識して染まる(認識する)が、心がその対象物について意識が向かっていないときは染められていない(認識されていない)という違いであり、物は心の中のみの産物ではなく、心とは独立して存在すると考えなければいけない、と説きます。

  


सदा ज्ञाताश्चित्तवृत्तयस्, तत्प्रभोः पुरुषस्यापरिणामित्वात् ।। 4.18 ।।


サダー ジュニャーターシュチッタヴリッタヤス タトプラボーホ プルシャスヤーパリナーミットワート



तत्प्रभोः  タトプラボーホ
そのチッタの主君である

पुरुषस्यापरिणामित्वात् プルシャスヤーパリナーミットワート
真我は決して転変しない。だから

सदा ज्ञाता: サダー ジュニャーターハ
常に心の状態は真我によって知られている。


仏教の「真我の否定」に対する反論になります。真我を否定、外的な事象の実体も否定、すべては空想夢想のようなもの、と説くとすれば、そこでチッタの不断の一連の流れを誰が見ているのか、そこには動くもの(チッタ)に対して、動かないもの(真我)があるから統一した連鎖の流れが認識出来る。不変で不動の真我が存在しないとすれば、転変する性質のチッタ同士が他の転変の流れを見て、一連を把握することはない、と説きます。

  


न तत्स्वाभासं  दृश्यत्वात् ।। 4.19 ।।


ナ タトスワーバーサン ドゥリシュヤトワート



तत्स्वाभासं タトスワーバーサン
その心は、自らを照らしだすことは

 
出来無い。

दृश्यत्वात् ドゥリシュヤトワート
なぜなら、心は見られる側であるから。


心は刹那刹那の時間毎に転変して動くもの、その瞬間に心が何かに惹きつけられたり、考えたり、反応を起こすことの連鎖が続くのですが、その瞬間毎のチッタの反応を他のチッタが視ることができるのか、という疑問がでます。

チッタは1つの時間単位で2つのことが同時にできないので、チッタは自分自身を映し出すことができず、また、自分自身を観ることができません。チッタの働きをみているもう一つの存在が必要であり、それが真我だというのが、この経文の主張です。

  

एकसमये चोभयानवधारणं ।। 4.20 ।।


エカサマイェ チョーバヤーナヴァダーラナン



 チャ
また

एकसमये エカサマイェ
同時に

उभयानवधारणम् ウバヤーナヴァダーラナム
チッタの反応と、外的な事象への認識という、2つのものへ意識を向けることはできないから。


チッタは転変する性質(パリナーマシール)であり、チッタの仕事はただ、外界のものを心に映し出し、真我の前に差し出して見せることである、それを把握して知ることができるのは不動の真我である。
 



चित्तान्तरदृश्ये बुद्धिबुद्धेरतिप्रसङ्गः स्मृतिसंकरश्च ।। 4.21 ।।


チッターンタラドゥリシャイェ ブッディブッデーラ ティプラサンガハ スムリティサンカラシュチャ



चित्तान्तरदृश्ये チッターンタラドゥリシャイェ
(真我が存在し無いという前提で)ひとつのチッタがもうひとつのチッタの働きを把握しようとするならば

बुद्धिबुद्धेरतिप्रसङ्गः ブッディブッデーラティプラサンガハ 
はじめのチッタが次のチッタに把握され、それが永遠に連鎖することになる。

 チャ
また

स्मृतिसंकरश्च スムリティサンカラシュチャ
記憶(念)の混乱が起こるだろう。


最小の1単位の時間にチッタはひとつの仕事が可能であり、仮に1単位の時間ごとに役割がコロコロ変わるとします。ある瞬間のチッタは外界のものを見たり考え事をしたりするとします。その後の1単位の時間のチッタは、その前者のチッタの状況を把握しようとします。そのように仮定すると、チッタそのものは転変する性質があるから、そのチッタを認識する次のチッタが必要になり、それをまた認識しているのは何なのか、という無限遡源と記憶の混乱に陥ってしまうことから、不動で転変しない性質の真我が状況を把握して見ていると行き着きます、これがヨーガ側の意見です。